旅する私の原点 ~浅水湾の月 森 瑤子著~


森 瑤子著『浅水湾(リパルスベイ)の月』。

私が小説家、森 瑤子先生の作品と出逢わなかったら、今こうして言葉を綴り、表現する世界に身を置くことはなかったかもしれません……。いいえ、それはちょっとした比喩。選択肢は他にありませんでした。出逢いも、そこからの26年間も必然だったのです。23年前の夏、森先生が亡くなり私はある決意をしました。そして、離婚し出版界へと飛び込みました。

時は流れ、7月の香港取材の時、久しぶりに読もうと本棚からとりだしたのがこの本でした。1987年、講談社より単行本が出版。私が持っているのは1990年に同社より発行された文庫本の初版。『浅水湾の月』、『ザ・ロビー』、『1997』の3つの短編は皆、返還前の香港を舞台に描かれています。

執筆されたのはバブル期の始まろうとしていた1986年。11年後、香港はイギリス統治から解かれ、中国に返還されるカウントダウンに向かっていた頃のことです。当時は、香港の古き良き風情、そしてシャレた空気が中国によって無残に暴かれ、崩壊するのを誰もが予期し、嘆いていたように記憶しています。

再び『浅水湾の月』を手にしたのは、この機会に浅水湾に足を延ばそうかと閃いたことがきっかけでした。そして、パラパラとめくって、ハッとしました。長く眠り続けてきた私の原点をそこに見たのです。

2016年6月撮影 ザ・ペニンシュラ香港、正面

3篇の中に共通して登場するのが『半島飯店(ペニンシュラホテル)』と1階にあるホテルの象徴、『ザ・ロビー』。この本で、森先生の語りで、私に刷り込まれたホテルへの憧れ。それは、いつのまにか、すっかり自分の中に吸い込まれ、始まりさえ忘れていたのです。

2016年撮影 ザ・ペニンシュラ香港、ザ・ロビー

その記憶の扉が開いたとき、本を初めて手にした当時の自分と久しぶりに逢ったような懐かしく、切ない気持ちになりました。

あの頃は今のようにインタネットはなく、ものを知るのは本やテレビ、映画といった媒体しかありませんでした。また、未知なる”香港”と”ペニンシュラホテル”も森先生が描く世界観の中で尻、漂い、息をし、主人公、ロレッタ崔やモニク李をとりまく運命をページから浮かび上がらせて視たのです。同時にその想いは、ザ・ペニンシュラ香港を目指すきっかけになりました。

結局、私が辿り着いたのは昨年、6月のこと。3つめのザ・ペニンシュラホテルズ。50歳の誕生日から2日後、2時間程度の視察の機会を得たのです。実は直前にマカオのフェリー乗り場にスマホを忘れ、動揺したまま香港に着き「ついてない」一日を初めての香港でスタートさせてしまったのです。この時はまだ”原点”も忘れたままでした。

そして今年。”浅水湾の月”は満月を過ぎていて黄昏時に見ることができないため、諦めることにしました。一方、再びザ・ペニンシュラ香港を訪ねようという気にはなりませんでした。まだ呼ばれていない、そう感じたのです。

夏の香港で読みかけて、やめたこの本。やっと今週もたらされた遅い夏休み、ザ・ペニンシュラ東京の『ザ・ロビー』で読み終えることができました。昨年からコマはまた進み、ザ・ペニンシュラパリ視察、直前にザ・ペニンシュラマニラの取材を果たした後のことです。

ところどころ剥げた表紙、黄ばんだページ。よれよれになってはいますが共に歳を重ねてきた証です。そして「今」、改めて読む意味も噛みしめることができました。でも、そう遠くない未来、今度は晴れ晴れとした気分で私はそこに立つ日が来るでしょう。その時が私というフィルターで見たザ・ペニンシュラ香港の物語を紡ぐ時の訪れと予感しています。



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