母の旅立ち わたしの決意


InstagramやFacebookなどのはSNSは続けていたものの、我が家(拙ブログ)は約1年8カ月をお休みすることになりました。もともとアクティブでない傾向ではありましたが、「休止」は初めて。Web上で日記(途中からブログへ)を書き始めてから22年ほどになりますが、その間、ここまで止まったことはありませんでした。再スタートをきった今、沈黙の時間の出来事にも触れていきたいと思います。

ブログを休止した理由のひとつに、2020年・コロナ禍元年に宣告された母の末期がん、そして自宅看護、看取りがあります。母のたっての望みもあり、一部の近親者を除き、親戚はもちろん、ご近所、母の友人にも告げずに家族4人で闘いました。私自身も事前にお話ししていた方や仕事先へのご報告は初七日を過ぎて、やっとという心境。それでも死去の直後にアップしたストーリーズを見て察してくれた方、初七日以降のご報告の方からお悔やみのメッセージ、お供物他、真心の数々が届いたのは、とても嬉しいことでした。こういう時に人と人との距離が見えると改めて感じました。

2020年秋、出張から帰った直後、母に付き添って末期のすい臓がんの宣告を受けました。すでに手術、治療のすべはなく母の意志の元、在宅での緩和ケアを選択しました。主治医、訪問看護師、薬剤師の優れた医療チームに支え、励まし頂きつつの約四か月半でした。私たち姉弟が目指したのは、家での看病と看取り、孤独と抗がん剤で死なせないこと。とくにコロナ禍とあって入院させてしまったら逢う事もできません。そして、過去において、少し多い死別を経験してきた私にできることは、患者本人や家族、周囲の前で泣かないという決意。なにより母には、日々穏やかで明るく和やかに過ごしてもらい、淋しさ、痛みや苦しさを感じることなく旅立てるようにと願い続けました。

また、主治医と、緩和ケアのドクターにご相談しつつ12月半ばまでに出張・取材を詰め込み、以降2月一杯までは、なるべく自宅で過ごせるようにスケジューリングをしました。再びの緊急事態宣言も味方になってくれ、実は栃木を出たのは、その間、3日+1泊のロケのみでした。

そんな私たちの様子を「強い」と表現した方々がいましたが決して強くはありません。心が折れないように自らを律し、涙をのみ込み、心にツギハギを当てながら進むしかありませんでした。普段、人前で動じない流石のわたしも、宣告時は珍しく、それほど飲んでいないというのに生まれて初めて人前で泥酔。さらに仕事が手につかないことも多々ありました。「泉美さんにしては……」と苦言されるほどレスポンスも、仕事の端切れも悪く、皆さまにはご迷惑を多々おかけしたと思います。

ありがたいことに一番心配だった母の病状と痛みは、想像したよりは控えめで薬も比較的合って、安らかな日々を送ることができました。最期まで意識があっただけでなく、死去の2週間程前まで身の回りのことは自分でこなせるほど体力もありました。なにより弱音を吐かず、我が母ながら立派であったからこそ、私たちも自宅療養を続けられたと思います。

1月も半ばになると医療チームの皆さんから「お母さんがね、いつも世界を飛び回っている娘がずっと家にいてくれている、とおっしゃってますよ」と口々に聞かされました。また、息を引き取ってすぐ、枕の中から数々の御守が出てきました。それらは私が長年国内を旅し社寺を参拝する度、母の健康と長寿を願って授かってきた御守でした。もともと、物を大切にする人でしたが、御守をお戻しすることなく大事に持っていてくれたこと、「すべて運命」と達観していたはずの母でしたが、最期は「まだ生きたい」と密かに神仏にすがる思いであったことを知りました……。

同時にこんな親不孝な私でも、誇りに思っていてくれたことに気づきました。私もまた母の娘として生まれたことが何よりの誇りです。母もまた明るく前向きに断捨離や自室の掃除、片見分けに励みつつ「子どもたちとたくさん一緒にいられたのでコロナで良かった。幸せだった」と言い続けてくれました。私もコロナ禍であったからこそ、リモートワークの世の中になり、家族の時間を多々持つことができました。だからこそプライベートもコロナのおかげで”追い風”であったと、ある意味感謝しています。

もっと長生きして欲しかった。親孝行できなかったという悔いはあるものの、限られた時間の中で各々やれることは全てやった、看取ることができた達成感があり、その頃は家族揃って、不思議と「後悔」「無念」はないと感じたほどです。32年前に亡くなった気の短い父は、母の到着に痺れを切らしているはずですが、早々に再会を果たせたのか、死去早々に成仏したかのように清々しささえありました。

久しぶりにこうして母のことを書いていたら、実家時代は一緒に桜や蓮など花を見に出かけたこと。最後に旅したことなども思い出しました。人は苦しいと、悲しいと、記憶の扉を閉じます。そうしないと歩めなくなるからです。もう少し時間が経てって、「時間薬」が効いてくると、その記憶も穏やかなものになっていくのも知っています。今は、少しずつ時間がゆるやかになりつつあるのでしょう。


53歳で他界した父、私(4歳)、母、妹(生後すぐ)

時は春。勿論、淋しさは日々増していったのですが、さらに大きな翼に付け替え、母の意志を乗せて、ますます高く広く羽ばたこうと自分に誓ったのです。

しかし、他のプライベートな事柄、仕事のプレッシャーも積み重なり、私が「私は大丈夫ではない」と気づくのに、そこから4ヶ月ほど先のことになるのです。この続きは、心の穏やかなときに執筆したいと思います。

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